体系としての成立根拠と三層構成の内部論理を確認したことで、次に問われるのは、この体系が誰に向けて構築されているのかという射程の問題である。いかに精緻な体系であっても、その適用対象が無限定であれば主張は空疎になり、逆に対象を狭く限定しすぎれば理論の存在意義が縮減する。帰属態動統論は、この射程をどのように画定し、なぜそのように画定するのかについて、明確な設計判断を持っている。

変化への意志という前提条件

帰属態動統論が想定する適用対象は、現状の自分を変えたいという意志を既に持ちながらも変われずにいる人である。ここで重要なのは、変化への意志がこの理論の前提条件として要求されるという点にある。変化を望んでいない人、現状に十分満足している人、あるいは変化という概念自体に関心を持たない人は、この理論の対象外として明示的に位置づけられる。

この限定は排除のための設計ではない。理論が実効性を持つための構造的条件の確認である。帰属態動統論の変容プロセス——俯瞰、癒着の認識、切り離し、選択、帰属、ふるまい——はいずれも、当人が自らの現状に何らかの不満足や違和感を抱いていることを起動条件としている。俯瞰するためには、俯瞰しようとする動機が必要であり、その動機は「今の自分のままではいたくない」という認識から生じる。癒着を認識するためには、癒着が自分にとって問題であるという前理解が必要であり、それは変わりたいという意志が存在してはじめて成立する。つまり、変容の6段階プロセスの第一歩である「俯瞰」に至るためにも、変化への意志という条件がすでに満たされていなければならない。

ここで、変化への意志を持つ人には、その方向性を見出すためのエネルギーが内在しているという主張が関わってくる。「変わりたい」という欲求は、たとえそれが漠然としたものであっても、暫定的な「変わりたい先」——すなわち新しい帰属先の候補——を内に含んでいる。漠然とした不満にも潜在的な方向性がある。この点は、中心主題における「変化の可能性と不可能性の同根性」と直接的に接続する。変わりたいという意志そのものが、新たな帰属先への移行の萌芽を含んでおり、理論はその萌芽を構造的に育てる枠組みとして機能する。意志のないところに萌芽はなく、萌芽のないところに理論は介入しえない。

レディネス概念による理論的正当化

この対象者限定の設計判断は、教育学におけるレディネス(準備性)の概念によって理論的に正当化される。レディネスとは、学習や行動変容に取り組むための心理的・身体的・環境的条件の成熟度を指す概念であり、レディネスが未成立の段階での介入は効果が乏しいことが教育学の基本的知見として共有されている。

帰属態動統論の文脈に即して言えば、変容の6段階プロセスの「俯瞰」段階に至るレディネスが未成立の人——すなわち自己の現状を対象化して眺めるための心理的準備が整っていない人——に対して理論を適用しても、実効性は期待できない。重要なのは、このレディネスの未成立が「やる気がない」「意欲が低い」という態度や人格の問題として誤認されやすい点にある。レディネスは態度の問題ではなく条件の問題であり、条件が整っていない人に対して態度を改めよと要求することは、構造的に的外れな介入となる。帰属態動統論がこの誤帰属を避けるために対象者を限定するのは、変化への意志を持たない人を劣った存在として切り捨てるためではなく、理論の介入が有効に機能するための構造的条件を誠実に明示するためである。

あらゆる人に有効であると主張する理論は、反証可能性を自ら放棄しており、帰属態動統論のメタ理論的立場——理論は科学ではなく実践哲学的仮説であるという自覚、未解決性を隠蔽せず開示するというせめてもの誠実さ——と矛盾する。射程を正確に画定することによってこそ、その射程内での主張の説得力が担保される。

変化願望の具体化という出発点

理論の対象者が「変わりたいという意志を持つ人」であるとして、次に問われるのは、その意志がどの程度具体化されている必要があるかという問題である。帰属態動統論においては、漠然とした変化願望を具体的な「どう変わりたいか」へと明確化すること自体が、変容の出発点として位置づけられる。

この点は、帰属の原理における「帰属先の選択可能性」の議論と構造的に対応する。帰属欲求そのもの——どこかに帰属したいという衝動——は根源的であり回避できないが、具体的にどこに帰属するかは主体的に選択しうる領域に属する。同様に、「変わりたい」という欲求そのものは漠然としていてもよいが、その欲求を変容プロセスに乗せるためには、少なくとも暫定的な方向性——どのような自分になりたいか、どのような帰属先に向かいたいか——が言語化される必要がある。この言語化のプロセスは、変容の6段階における「俯瞰」から「選択」に至る流れの中に組み込まれている。

ただし、ここで要求される具体性は完全な青写真ではない。理想の自己像が最初から精密に描かれている必要はなく、むしろ暫定的なラベルとして方向性を仮置きすることが実践的に有効であるとされる。理想は意思決定を簡略化するための実用的なツールとして機能し、行動と経験の蓄積を通じて事後的に精緻化されていく。「変わりたい」の中身が明確でないことは、変容の不可能性を意味しない。それは変容の初期段階にいることを意味するにすぎず、具体化のプロセスそのものが変容の一部として設計されている。

この設計は、動組成理論における解放モデルの構造とも整合する。解放モデルにおいて、新たな帰属先の選択は癒着の認識と切り離しの後に位置づけられる。つまり、変容の初期段階では「何に向かうか」よりも「何に囚われているか」の認識が先行し、方向性の具体化はそのプロセスの中で自然に浮上する。変化願望の具体性を入口で要求しすぎると、変容プロセスの前に理論への参入障壁が生じてしまう。帰属態動統論はこの障壁を避けるために、「変わりたい」という意志の存在を前提としつつも、その内容の精度には柔軟な幅を許容する設計を採る。

意志の存在と変容の困難が両立する構造

理論の対象者を「変わりたいのに変われない人」と定めることは、一見すると矛盾を含んでいるように見える。意志があるのに変われないとはどういうことか。この問いへの応答こそが、帰属態動統論の中心主題そのものである。

「変われなさ」の多層構造分析によれば、変わりたいのに変われない経験は少なくとも三つの層に分解される。第一に、理解と行為の断絶——何をすべきか知っていてもそれを実行できない。第二に、自己同一性への実存的不安——変わることで今の自分が失われるのではないかという恐怖。第三に、無意識的利益——現状を維持することが守っている隠れた利得の存在。これらはいずれも意志の弱さではなく、構造的なメカニズムとして記述される。意志力は無意識の24時間稼働に対して構造的に敗北するという非対称性があり、意識的な努力だけでは無意識的に作動する帰属の自己安定化装置に太刀打ちできない。

この構造的理解が、理論の対象者限定と深く関わっている。帰属態動統論は、変われないことを個人の意志力不足に帰さない思想的立場を設計原則として堅持する。意志はある。しかし変われない。この両者が矛盾なく共存する構造——帰属による自己固定化メカニズム、旧帰属の自己免疫的防衛構造、恐怖連鎖構造——を解明することが、理論の中核的な仕事である。意志の存在を前提条件とすることと、変容の困難を構造に帰属させることは矛盾しない。むしろ、意志があるにもかかわらず変われないという事態を正面から引き受けることによって、変容の構造的阻害要因の解明が可能になる。

もしこの理論が、変われない人を「本当は変わりたくないのだ」「意志が足りないのだ」として片づけるのであれば、それは一部の既存の自己啓発が繰り返してきた切り捨ての論理に回帰することになる。帰属態動統論はその回帰を明確に拒否する。変容の困難を意志の弱さではなく構造的メカニズムとして捉える視点——この視点そのものが、理論の対象者を「変わりたいのに変われない人」と定める設計判断の思想的基盤をなしている。

同時に、この設計判断は理論の射程の外側についても含意を持つ。変化への意志を持たない人に対して理論が無効であるという限界の承認は、その人々の存在を否定することではまったくない。それは、異なる条件下にある人々に対しては異なるアプローチが必要であるという認識の表明であり、帰属態動統論が自らの万能性を主張しないことの表現である。あらゆる人間を射程に収めようとする欲望は、理論の過剰説明力——何でも説明できるがゆえに何も説明していない状態——への道になりかねない。それは、帰属概念の境界問題として理論自身が自覚する危険そのものである。射程の画定は、理論が自らの限界を正当に引き受ける行為として、メタ理論的な自己規律の一環をなしている。